2020年02月
会津若松市のシンボルである鶴ヶ城には、赤瓦や石垣、茶室などの見どころがあります。
至徳元年(1384年)に葦名直盛が造営しました。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。鶴ヶ城の名で親しまれていますが、正式名称は若松城です。
幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐えて難攻不落の名城と称えられましたが、明治7年に政府により取り壊され、昭和40年(1965)に現在の天守に再建されました。白壁と赤瓦のとても美しい姿です。
鶴ヶ城の本丸内に、千利休の子、少庵が建てたと伝わる麟閣という茶室があります。枝垂れ桜がとても美しそうです♪
本丸内に荒城の月碑も建てられています。春高楼の花の宴~ではじまる名曲は、鶴ヶ城が取り壊された荒城を土井晩翠が訪れて作詞したそうです。
男装して新鋭のスペンサー銃を担いで、迫り来る薩摩・長州を中心とした新政府軍と勇敢に対峙していく山本八重(新島八重)ゆかりの城でもあります。
また、戊辰戦争に際して会津藩が16歳から17歳の武家の男子によって組織した白虎隊。城を出て戦っていた白虎隊が飯盛山から鶴ヶ城を見ると、城下町が燃え盛っているのを落城したもの思い、20名の隊士全員が自害してしまうという悲劇もありました。
このような出来事が天守閣の各層にパネルなどで紹介されています。これらを見ながら最上層に上ると、磐梯山の美しい姿が見えました。今年は暖冬で雪が見れなかったけど、いろんな風景を楽しめる1泊旅行になりました^^
至徳元年(1384年)に葦名直盛が造営しました。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。鶴ヶ城の名で親しまれていますが、正式名称は若松城です。
幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐えて難攻不落の名城と称えられましたが、明治7年に政府により取り壊され、昭和40年(1965)に現在の天守に再建されました。白壁と赤瓦のとても美しい姿です。
鶴ヶ城の本丸内に、千利休の子、少庵が建てたと伝わる麟閣という茶室があります。枝垂れ桜がとても美しそうです♪
本丸内に荒城の月碑も建てられています。春高楼の花の宴~ではじまる名曲は、鶴ヶ城が取り壊された荒城を土井晩翠が訪れて作詞したそうです。
男装して新鋭のスペンサー銃を担いで、迫り来る薩摩・長州を中心とした新政府軍と勇敢に対峙していく山本八重(新島八重)ゆかりの城でもあります。
また、戊辰戦争に際して会津藩が16歳から17歳の武家の男子によって組織した白虎隊。城を出て戦っていた白虎隊が飯盛山から鶴ヶ城を見ると、城下町が燃え盛っているのを落城したもの思い、20名の隊士全員が自害してしまうという悲劇もありました。
このような出来事が天守閣の各層にパネルなどで紹介されています。これらを見ながら最上層に上ると、磐梯山の美しい姿が見えました。今年は暖冬で雪が見れなかったけど、いろんな風景を楽しめる1泊旅行になりました^^
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